子供が泣いている
始めその姿を見たときは何故こんなところに、と思った。
物の怪に襲われた屋敷から、そんなに離れてはいない。
だが、子供の足でここまでたどり着けるとは思えなかった。
何かに、守られているのか。
「…お前は…」
子供が怖々と見上げてくる。
涙で濡れた顔に、微かに血がついている。
見覚えのある小太刀が服の間に挟まっている。
『この子のこと…、頼みますね…』
そう頼まれたのはいつのことだったか。
確か、名前は…
「朧…?」
びく、と体が震えた。
「…一人、なのか。霞殿は…お前の母親はどうした」
怯えた瞳。
自分の身に何が起きたのかを理解するのは難しいだろう。
物の怪により、屋敷が攻め落とされたなど。
きっと、この子の母親は、もう…。
「私は…お前の母に頼まれた者だ」
「…かぁさまに…?」
「何があったんだ」
「わからない…空が、暗くなって…」
物の怪が現れる予兆ともいえる暗雲。
この幼子では何のことだかわからなかっただろうが
きっと母は気付いていただろう。
禍々しい物が来る前触れ、と。
「それから、変な…変な人が来て…
かぁさまは、守り刀を…逃げろ、って…」
守り刀の存在は私でも知っていた。
私が、彼女に渡したものだったから。
『これは…?』
『物の怪を静めるといわれる小太刀…
あなたの身を守るのに、これが最適かと』
『私は、死ぬことを恐れてはいません』
『ですが…!』
『ただひとつ、この子が…朧が殺されることだけは…』
まだちいさかった子供。
その命を散らしたくない気持ちは理解できる。
だがこの人をこのまま死なすのは…惜しいと思った。
『あなたが殺されれば、この子供も危ない』
『わかっています。ですが、もしもの時は…この子を頼みます』
『霞殿…!』
『あなたならば、この子は大丈夫だと思います。
この子が殺されることのないように…あなたの所で…』
『忍びの道に…入れろと』
『その素質は、あると思います。あの方の子供なのですから…』
その者は、人間ではない。
人外の力を持つ、物の怪。
殺したものの力を吸収する…そんな者。
そして、やがて来る殺戮者も、同じ者。
『私はこの子に、あなたのようになってほしい』
『私のように?』
『あなたはとても優しい…この子にもそうなってほしい…力があるからこそ、あなたのように…』
『私は優しくなどありません』
『いいえ…きっとこの小太刀は、里の大事なものなのでしょう?』
『・・・』
『私のために、持ってきてくださったのですから』
『…しかし…』
『あなたにしか、頼めないのです。お願いします』
自らの死すら恐れぬ強い瞳だった。
しかし皮肉なことだ。
その強さが、物の怪の興味を引いた。
そして生まれたのが、この子だ。
「…私と来るか?」
「え…?」
「お前の母に、そう…頼まれた」
「…あなた、は…?」
「疾風。炎魔忍軍の疾風だ」
「はやて…?」
「ああ…もう母にも会えず、辛い思いをするかもしれぬ。それでもいいなら…来い」
幼子は戸惑いがちに私を見上げた。
「つらい、の?」
「ああ」
「かぁさまにも、会えないの…?」
「…あぁ」
少しの間の後、ためらいがちに手が伸ばされた。
小さな小さな手だった。
正直、この子に拒絶されるかと思っていた。
だがそんなはずはないだろうと、少し思った。
この子の母親は、あの人なのだから。
「…いいのか?」
「うん」
「そうか」
伸ばされた手を握る。
小さいが、暖かかった。
「お前の名前は、今から朧丸だ」
「おぼろ…まる?」
「お前は忍びになる…」
「…はやてと、同じ?」
「あぁ」
この子供を守ろう。
忍びとして育てる
それがあの人の望みならば、従うのみ。
救った子供は、里の中でも異例の強さになった。
同じ歳、それ以上の者でも適わないこともあった。
それは上の方でも噂になっていた。
「あの子供…朧丸と言ったか。例の屋敷の生き残りらしいな」
「…森の中を、彷徨っていましたので」
「嘘が下手だな疾風。霞殿に頼まれたのであろう?」
「…」
何もかも見通されている。
だがそのことについては何も言わない。
「技もそうだが、術に関する才は見事なものだ。あの物の怪の力を持つだけはある」
「…本人はまだ、それを知りませぬ。あの時襲って来た物の怪と自分の関係も、その物の怪の驚異的な力も」
「それを、話す気はない様だな」
「朧丸は私が連れて来た時より忍びとなりました。炎魔忍軍の朧丸、それだけで十分かと」
「だが、あの力を恐れるものは多い。朧丸自身を含めて」
「才のない者は怯えるのみ。力を受け入れ、利用するのも忍び」
「利用、か…」
「何か」
「ではいずれ、朧丸が里を抜けるようなことがあればその始末はお前に任せよう」
「…」
「最も、いずれそれが可能なのはお前だけになるだろう」
その可能性はなくはない。
何も知らない幼子のうちに連れてきて、それに反感を覚える可能性は、高いと思う。
ましてや、根本的には優しい子供。里を抜けることはいくらでも考えられる。
だが、それは許されないこと。
里を抜けた者、抜け忍には死を。
それが忍びの掟。
その時の朧丸に、勝てるものは数少ないだろう。
これからますます強くなっていく力に、かなう者など、数少ないだろう。
「承知…致しました」
「疾風殿」
部屋から出ると朧丸がそこに立っていた。
あの頃に比べて大きくなったが細い華奢な身体は変わっていない。
どこか幼い顔や仕草とは異なり、身にまとう気配は忍びのものに近づいている。
それが、いいのか悪いのかは分からないが。
「…朧丸」
「また何処かへ?」
「いや…そういうわけではない」
「そうでござるか…」
複雑そうな顔で頷いた。
どこかほっとしたような雰囲気に思えた。
「どうした?」
「…次、疾風殿が何かしらの命を受けたとき、拙者もお供したいと思っていたので」
「…お前が?」
いきなりそんなことを言い出されて戸惑わないわけではない。
そんな話は一度も聞いたことはなかった。
「拙者はまだ未熟でござる。だから、少しでも一人前の忍びになるために…疾風殿のような忍びになるために、努力したいのでござる」
「・・・」
あの日の子のこの母親の言葉を思い出した。
『私はこの子に、あなたのようになってほしい』
母と同じような意志の強い瞳で、同じことを望んでいる。
それが、どんなに愚かなことかも知らないで。
「疾風殿?」
「お前は…お前のやり方で忍びとなれ」
「拙者のやり方で…?」
「己の力を操れるのは己のみ。他人のやり方では道を極められぬ」
「…そうでござるか」
「お前はいずれ、里の中でも重要な存在になるだろう」
「拙者が…?」
「その時まで、死ぬな」
「…承知いたした」
出来れば、忍びとしてではない生き方をして欲しかったなどとそんな考えは今更遅いのだろうか。
いっそ抜け忍となって、自由を得て欲しいと思ってはいけないのだろうか。
あの幼き子供と、いずれ戦うことになれば殺すことなど、きっと出来ぬ気がする。
この激動の世を、その闇に紛れて生き延びて、己の道を進んでいて欲しい。
無残に死ぬな。
例えそれが忍びとしての死に方だとしても己の道を歩み、死んで欲しい。
『あなたに死んで欲しくはない』
それさえ言えていれば運命が変わったのかもしれない。
そんな自分の弱さが許せないからこそ幸せに生きて欲しいと願う。
それは、忍びとしてはあるまじき考え。
こんな弱い忍びになることなど望むな。
この弱さでは、先に進むことは出来ない。
お前はお前のやり方で
お前なりの忍びの道で
お前なりの行き方で
先へ先へと進め。
動乱の時代を抜けた先の眩い光へと。