深緋の涙

1月3日。
 その日付をレイチェルから聞いたハクメンは、珍しくあからさまに狼狽していた。世界のループを打ち砕いたことで油断してしまい、ハクメンはココノエによって身体の動きを封じられてしまった。そして今ようやっと、レイチェルによってその封を解いてもらい自由を手に入れた。
 己の感覚ではあれから1日くらいは過ぎているであろうと踏んではいたのだが、まさかもう3日も過ぎていたとは。とにかく急がねばならない。ひたすら焦る気持ちを仮面の奥に隠し、ハクメンは転移は出来ないと告げるレイチェルと別れ、一人カグツチへと向かった。

 新年というのもあってか、カグツチ全体は今までに無いくらいに賑やかだった。それは浪人街も例外ではないようで、色とりどりの花火が夜空を彩るようにいくつも上がっている。そんな華やかな様子を横目にしつつ、ハクメンは人目を避けながらひたすら目的地へと急ぐ。
 バングへの言い訳を延々と考え込んでいるうちに、目的地にはすぐに到着した。それもそうだ、この屋敷には何度も足を運んでいる。門番をしていた部下に声をかけると、部下はいささか驚きつつもすぐさまバングの部屋へと通してくれた。だがいつもならば開けっ放しのはずの彼の部屋の戸が閉められている。いったいどうしたと言うのだろう。不審に思いつつも、ハクメンはその戸の前に立った。
「バング」
 戸の向こうにいるであろう恋人に、ハクメンはそう声をかける。
「バング、私だ。戸を開けてくれ」
 そう告げるものの、向こうからの返事はない。むしろ物音ひとつしない。居ないのか。そう考えもしたが、確かに戸の向こうにはバングの気配がある。だんまりを決め込んでいるであろう恋人に、ハクメンは諦めずに声をかけ続ける。ここで止めてしまったら、それこそこの男との関係が終わりを告げてしまう。それだけは、絶対に避けねばならない。
 誕生日を共に過ごそう。彼の元旦が誕生日であることを知ったハクメンは、数日前にバングとそんな約束した。二人で花火を眺めながら、美味い料理に舌鼓を打ち、ゆっくりとこの時間を楽しもう。そんなささやかな約束だった。それをハクメンは、不可抗力とは言え反故にしてしまったのだ。
「バング…貴公の誕生日に会いに行けなかったのは私の落ち度だ。それに関しては言い訳は出来ぬ。する心算も無い。私が犯した罪は重く大きいだろう。だがバングよ、これだけは聞いて欲しい。私は片時も貴公を、バングを忘れた事は無い」
 精一杯言葉を選びつつ、ハクメンはバングを説得する。相手からの返事はやはり無い。このままでは無駄に時間が過ぎていくだけだ。彼には申し訳ないけれど、このまま押し問答を続けるわけにはいかない。力押しはあまりしたくはないのだが、生憎こちらには時間が無い。そうなれば己が為すことはひとつだけだ。
「バング…済まない」
 それだけを告げて、ハクメンは納めていた鳴神を抜いた。

 目の前の戸が、綺麗に斬り捨てられ音を立てながら崩れ落ちる。彼の部屋は真っ暗だったが、ちょうどよく花火の光が中を照らし出してくれていた。ハクメンの足元から少し離れた場所に、バングは背を向けて座り込んでいた。ゆっくりと歩を進めると、びくりとバングの身体が震える。
「はっハクメン…殿…」
「バング…泣いていたのか…?」
 振り向いたバングの顔を見て、ハクメンがそう問い掛ける。いつもは眩しいばかりに輝く黄金色の両眼が、今は真っ赤に染まってしまっている。これを見るに、相当泣き続けていたのだろう。常に明るく振舞っているバングが、あのバングが静かにじっと泣いている。そんな姿に、己の罪深さに、胸が締め付けられるようだった。こんな風にさせてしまうくらいならば、ココノエの陣を強引にでも突破するべきだった。
「バング。勝手を許せ…」
「ハクメン殿…」
 膝を折り、ハクメンは己の面を取る。するとバングが俯いてこちらと視線をそらしてしまった。やはり拒まれているか。それも致し方の無いことだろう。それでもハクメンは、真っ直ぐに彼を見つめた。
「寂しくなど…無かったで、ござるよ。それに、ライチ殿も、カルル殿も、タオも、浪人街の皆も…皆が祝ってくれたでござる…それに、それに」
 ぽつり、ぽつり。バングの口からそんな呟きがこぼれる。その途中から、少しずつだがまた嗚咽が混じり始めた。彼の肩が震えているのを見るに、どうやらまた泣いてしまったようだ。
「皆が…でもっ、でも、ハクメン殿だけ…いなくて…もしかしたら、拙者、のことっ…」
「貴公の事を私が忘れるはずが無い」
「でも、でも、でも」
 まるで子供のように泣きじゃくりながら、バングが同じ言葉をただ繰り返す。きっと昼は誰にも心配をかけぬように気丈に振る舞い、夜になったらこうやって部屋で一人、バングは寂しさを紛らわすために泣き続けていたのだろう。この部屋と、彼の様子からそれは安易に察することが出来た。ここまで彼を思い詰めさせてしまっていたとは。ハクメンは己をひたすら叱責する。
「えぐ、うっ…はく、めっどのぉ」
「私は此処に居る。貴公の側に居る」
 バングを引き寄せて、言い聞かせるように背を撫でながら、ハクメンは声を殺して泣き続ける彼に告げる。
「済まなかった、バング」
 そんな二人の姿を、上がり続ける花火が照らし続けていた。

 カグツチに心地よい風が吹き抜ける。一人待ち合わせ場所に立つレイチェルは、未だやって来ない約束の相手をずっと待ち続けていた。なるべく早く来いと釘を刺したはずなのに、あの英雄はどこで油を売っているのだろう。何となく行き先の予想は出来てはいるけれど、それを計算した上でも遅すぎるくらいだ。
「まったく、英雄さんは来るのが遅いわね」
 まぁ、観測てしまったから、彼が何をしているのかはバレバレなのだけれど。くすくすと楽しそうに微笑むレイチェルのそんな呟きは、カグツチを吹き抜ける風の中に消えていった。