無防備に眠る横顔をアビはただ見つめていた。
壁によりかかってだらりと腕を下ろされた腕の先には杯が転がっていた。
飲んでいてそのまま寝てしまったのだろう、それを見つけた時はただ風邪を引くといけないと思った。
起こさなければ、と眠っていても端正な顔立ちを見た途端アビは動けなくなった。
「往壓さん」
ぽつり、と名前を呟く。
起きる気配はない。
「往壓さん」
もう一度、今度は呼ぶ。
眠る横顔は美しく、凛々しく見える。
じっと見つめているとざわざわと胸の奥がざわめく。
触れたい
そう思い、手を伸ばしかけて…止める。
触れてはいけない、そう思った。
この思いを知られてしまってはいけないのだと、そう思いながらそれでもそこから去ることも出来なかった。
じっとただ見つめる。
視線で人に触れられるとしたらその身体全てを余すことなく触れていただろうと思うほどに。
あぁ、何故
触れたいと思ってしまうのだろうか
手を下ろし、だがいまだ誘われるように眠るその顔にアビは己の顔を寄せる。
睫毛の長さに見惚れるほど近くになっても往壓が起きる気配はない。
そのまま触れても、おそらく、気付かずに済むのでは…そう思うほどに。
触れたい
欲というには細やかな、だが確実に形を持った感情。
近すぎる距離、視界には往壓しか映らない。
頬に口付けそうなほどに近づくと視界の隅に映る微かに開いた唇。
光に誘われる虫のように自然とそちらへと引き寄せられる。
駄目だと駄目だと思っても近づくことで仄かに感じる肌のぬくもりが頭の奥を痺れさせる。
目を閉じると、それは更に身近に感じられて。
あと、少しで触れ合うのだと思うと胸が高鳴った。
でも、だが、それは
すっと目を開ける。
触れるまであと僅かな距離だった。
やはり、駄目だ
そっと起こさないように往壓から離れる。
起きる気配はなかった、それだけが唯一救いだと思った。
そのまま部屋を逃げるように飛び出す。
こんな浅ましい自分を見られずに済んだことに息をつくと同時に、もし往壓が目覚めていたらどうなっていたかとも考えてしまう。
幻想でしかない期待が頭を過ぎりアビは戒めるように拳を強く握った。
そんなはずはない、こんな邪まな思いを忘れなければとアビそう自分に言い聞かせた。
「…意気地なし」
アビが部屋を出て少ししてふっと目を開いた往壓がぽつりと呟いた。
眠ったふりをしたのはただの遊び心だった。
だがアビの気配がふと変わり触れられそうになった時それは『そうしなければいけないこと』に変わった。
アビの思いに気付かぬふりをしている以上往壓がそれを知ってしまうような状況から逃げなければいけない。
結局アビは往壓には触れなかった。
これでよかったのだとわかっていてもどこか往壓は触れられたかった、と思ってしまう。
それがアビを堕とすことになっても、また誰かの道を真っ当なものから外してしまうことになっても、それでも…。
そんな自分から逃げるように往壓は適当な言葉でアビを揶揄する。
「ったく…臆病もの」
的外れにも程がある、と自分で思った。
真っ当な人間なら寝込みを襲うなどしなくて当然だ。
ましてやあのアビだ、しなくて当然の事を何が臆病だと罵れるというのだ。
我ながら愚かな呟きに不意にくくっ、と往壓が自嘲気味に笑った。
「…どっちも、俺のことじゃねぇか」
そんなに触れられたかったのなら目を開けてそのまま言ってしまえばよかったのだ。
その度胸もなく卑怯なやり方でアビを試すなど、どれだけ自分は汚いのだろうか。
意気地がないのは、臆病なのは…自分だ。
そう思うと自嘲の笑いを止められなかった。
己の愚かさは百も承知だったはずなのにまだ足りぬというのか。
ふと往壓は触れられかけた頬に、そして唇に触れた。
あの時間近に感じた体温が残っているようなそんな気がした。
他人と触れ合うことはこんなにも難しいことだっただろうか。
往壓はもうそれを思い出せない。
触れ合うことが当然の存在を作り上げそんな生き方をしたのは、選んだのは他ならぬ自分自身。
そんな長い時間がそれを忘れさせた。
これも罪の、その報いの一つなのだろうかと思うと涙が滲んだ。
悲しみよりも虚しさが募った。
思わずにいられなかった。
あぁ、やはり触れられたかった―――と